そうか、、 
 
 
あの日の言葉を届けにきたのはこの人だったのか。。 
 
 
 
 
 
 
 
僕の生まれて初めての記憶の中に父はいました。
 
 
 
 
それは自分が一歳ぐらいの時なのか。
 
 
 
 
家の前の道路をよちよちと一緒に角まで歩いて行きました。
 
 
 
 
かつては自宅の周りには本当に何もなくて、雨上がりの空き地にヨシがたくさん生えていました。
 
 
 
 
地べたが濡れているので、その辺にあったダンボールを敷いて僕を座らせた後、父は雨上がりのキラキラと光る側溝の水たまりにヨシの葉っぱで船を作って浮かべてくれました。
 
 
 
 
人生の最初の記憶です。
 
 
 
 
 
 
 
この世界は美しく、まばゆく、やさしいところでした。
 
 
 
 
 
 
 
僕の父は普段は無口でしたが、いい人間でした。
 
 
 
 
ただ、素直に人を褒めないようなところがありました。
 
 
 
 
何かもの言う時には、いちいち何かにつけて一言、加える人でした。
 
 
 
 
 
 
 
会社のワンダーフォーゲル部で知り合い、山登りをしていた父と母は、運動神経がとてもよかったらしく子供の頃はいつもリレーの選手だったと言います。
 
 
 
 
その血を受け継いだのか、僕の妹も足が速くて運動会ではいつもリレーの選手として活躍していました。 
 
 
 
僕は家族の中でだだ一人だけ、かけっこの遅い人間。 
 
 
 
運動会の種目で一等賞をとったことはありませんでした。 
 
 
 
小学校6年生の時、運動会の個人種目は障害物競争でした。 
 
 
 
純粋な脚力だけで勝敗が決まらないその種目で、僕は人生初めての一等賞をとりました。 
 
 
 
 
「 一等になったよ!!」 
 
 
 
 
僕は喜び、息を弾ませて、帰宅した父に報告しました。 
 
 
 
 
「 でも、徒競走じゃないんだろ?」 
 
 
 
 
相手は生まれて初めて一位を取る事ができた、自分の子供です。
 
 
 
 
一事が万事、全てにおいてそのような調子でした。
 
 
 
 
 
 
 
2021年3月2日(火)
 
 
父は自宅で倒れ、順天堂大学医学部附属浦安病院に緊急入院しました。
 
 
 
 
2019年の8月に肺がんと診断され、何度も入院し、手術をして、抗がん剤と放射線治療にて闘病生活を続けてきました。
 
 
 
 
2017年11月に肺炎で入院して以来、ずっと肺の治療を続けていましたが、今思えばあの時からガンの兆候はあったのだろう、と母は言います。
 
 
 
 
倒れる6日前の診断で、肺の様子は落ち着いているので今後通院するのは1ヶ月に1度でいい、とされ安堵した矢先のことでした。
 
 
 
 
結果、肺のガンが脳に転移していました。
 
 
 
 
病院で見せてもらったCT検査の画像では、 何の知識もない素人が見ても明らかなくらい、いくつもの腫瘍がボコボコと脳の中に存在していました。
 
 
 
 
 
 
 
2021年の春、コロナウイルスの影響で病院での面会は禁止、病室には家族も入れません。
 
 
 
 
毎日のように病室の前まで着替えを届けても、そこから先は看護師さんに手渡すだけです。
 
 
 
 
目の前の壁の裏から父の声が聞こえてきますが、顔を見る事は出来ません。
 
 
 
 
残された時間があまりないだろうことを母に話すと、母は父を自宅に連れて帰ること決意しました。
 
 
 
 
もうすでにその頃には、病院でできることは何もなかったのです。
 
 
 
 
 
 
 
退院の5日前に関係者を含めたZoomの会議が行われ、そこで主治医の先生から、余命はおそらく1~2ヶ月と伝えられました。
 
 
 
 
 
 
 
2021年4月14日(水)
 
 
午前中に多少の小雨がぱらつく中、父は退院してきました。
 
 
 
 
午後には父の在宅介護にたずさわる、医療、看護、介護の関係者の方が父の眠るとなりの部屋に集まりました。
 
 
 
 
在宅訪問診療医師の先生、先生随行の看護師さん、主任ケアマネージャーさん、 訪問看護ステーション所長で主任看護師さん、訪問介護・居宅支援事務所所長さん、介護のサービス提供責任者さん、 介護の管理責任者さん、 介護福祉士さん。
 
 
 
 
余命いくばくもない1人の老人のために、8人の方が自宅に集まってくれていました。
 
 
 
 
父の為だけに医療、看護、介護のプロがチームとして集まって、そこから先の在宅介護の打ち合わせをしている。 
 
 
 
 
とてもありがたく、日本という国のすごさを感じました。 
 
 
 
 
 
 
 
そこでも、訪問医師の先生の見立てでは、予後は恐らく一か月ぐらいとのこと。 
 
 
 
 
 
 
 
そこから母の眠れない日々が始まりました。
 
 
 
 
 
 
 
父が人を褒めない事を、絶望的に認めざるを得なかったのはデビュー戦の翌朝でした。
 
 
 
 
朝ごはんの食卓についた僕の横にはいつものように父が座っていました。
 
 
 
 
テーブルには、昨晩もらった花束が飾ってあります。
 
 
 
 
その前日、プロボクサーとしてのデビュー戦を1ラウンドKOで勝利した僕は、 父が何か言うのではないかと期待していました。
 
 
 
 
 
しかし何一つ、 
 
 
ただの一言も言葉を発することなく、いつものように父は会社に行きました。
 
 
 
 
「 何か一言ぐらい、かける言葉は無いのか ・・・」
 
 
 
 
憤りと虚しさで、喉の奥が締め付けられたのを今でも覚えています。
 
 
 
 
 
 
 
僕は人生を通じて無価値感を抱えて生きていました。
 
 
 
 
どんなに頑張っても頑張っても、自分には価値がない、まだまだと足りない、と自らを追い込むように生きては、その反動で動けなくなり、自分はダメだと悲しい気持ちになりました。
 
 
 
 
自分の中の小さい子供が、 
 
 
ただ単に父に認められたかったのだと、今では理解しています。
 
 
 
 
大人になってずいぶんしてから知ったことですが、僕は幼い頃、父が会社に行こうとすると泣いてわめいて追いすがったそうです。 
 
 
 
 
父は毎朝会社に行くのにすごく苦労したと言います。
 
 
 
 
三つ子の魂百までと言いますが、 いい年して随分こじらせまくったファザコンだなあと自分でも思います。
 
 
 
 
 
 
 
2021年4月16日(金)
 
 
退院して二日後。
 
 
 
 
僕と母と妹は父が寝ているとなりの居間で話していました。
 
 
 
 
「 延命処置はしないんだよね。
 
このままでは、あと3日だと思う。」
 
 
 
 
ものも食べられず、水も飲めず、意識が朦朧としたまま寝たきり状態の父をみて僕は二人にそう言いました。
 
 
 
 
後になって自宅介護も終盤に差しかかったころに聞いた話ですが、訪問主治医の先生は退院当日、父の状態を見て
 
 
「2日ほどで亡くなってしまうかな。。」 
 
 
と、実は考えておられたそうです。
 
 
 
 
このままでは週明けで終わりだと判断した僕は、ベットで朦ろうとしている父を囲んでみんなで写真を撮りました。
 
 
 
 
そして言いました。
 
 
 
 
「 よし! じいちゃん、酒を飲ましてやるぞ!!」
 
 
 
 
 
 
 
若い頃から大酒飲みだった父は、闘病生活で病気と付き合いながらも、自宅では可能な限り毎晩、大きなペットボトルの安い焼酎を飲んでいました。
 
 
 
 
父が退院する前の 4月2日と4月5日の2回。
 
 
 
 
順天堂大学病院から特別に許可を得て、別室にて父との面会が許されていました。
 
 
 
 
自宅介護を行うにあたり、父の現在の状況を確認するためです。
 
 
 
 
その時父は、聞き取ることもおぼつかない声で
 
 
 
 
「 水道水が飲みたい 」
 
 
 
 
と言いました。
 
 
 
 
病院では誤えんを防ぐため、水分でさえも、とろみのついた物を与えられていました。
 
 
 
 
僕は父を自宅に連れて帰れたとしたら、酒でも何でも好きなものを飲ませて、食べさせてやろうと決めていました。
 
 
 
 
「明日死ぬかもしれない人間に、美味くもないもの食わせたってしょうがない。
 
どうせだったら大好きな酒を飲ませて誤えんで死なせてやろう。」
 
 
 
 
そう考えていました。
 
 
 
 
 
 
 
父を囲んで写真を撮った後。
 
 
 
 
父の遺伝子を受け継いでこれまた大酒飲みの妹が、棒の先にスポンジがついた口内ケア用の介護用品に日本酒を含ませ、
 
 
 
 
「 じいちゃん、酒だぞー!」
 
 
 
 
と言って、唇の隙間から酒に浸したスポンジをねじ込みました。
 
 
 
 
すると、、
 
 
 
 
半分意識をとばして、生死をさまよっているような状態の父がチュパチュパとスポンジの酒を吸い出しました。
 
 
 
 
「こんなになっても酒は飲むんだ!?」
 
 
 
 
僕と妹と母は大笑いしました。
 
 
 
 
 
 
 
さすがだ、、、
 
酒飲みの鑑だな。。。
 
 
 
 
 
 
 
プロとしてデビューしたばかりのボクサーの報酬は一試合およそ3万円です。
 
 
 
 
試合が決まってから数ヶ月間、生活の全てをかけてトレーニングをし、命を縮めるような減量をこなして 手にするのは3万円ほど。
 
 
 
 
僕はその報酬をボクシングジムから、3万円より少し多めの額のチケットという形で受け取る方法を選んでいました。
 
 
 
 
5000円席のチケットを3000円に値引きして、友達にお願いして買ってもらうのです。
 
 
 
 
友達に買ってもらえなければ、3万円にもなりません。
 
 
 
 
「リングの上に比べると世の中はあまりに退屈だ」
 
 
 
 
昔、そのようなことを言ったボクサーがいたらしいのですが、現実はそんなかっこいいものではありません。
 
 
 
 
下積みの舞台役者さんはこうやって手売りで、チケットを知り合いに買ってもらうんだろうなぁ、、、
 
 
 
 
と、役者さんの気持ちなんてつゆほども知らないくせに、勝手に親近感を抱いては想いをはせていました。
 
 
 
 
僕はその、なけなしのお金に変わるチケットを二人分だけは母に手渡し、父と母を招待していました。
 
 
 
 
 
 
 
二人は後楽園ホールで行った3試合を見に来てくれました。
 
 
 
 
僕は父と母の目の前でデビュー戦から3試合連続1ラウンドKO勝ちをおさめました。
 
 
 
 
しかし、
 
父からは一言のねぎらいの言葉すら、もらう事はありませんでした。
 
 
 
 
それどころか、3連続1ラウンドKO勝ちをおさめたあとには 
 
 
 
 
「 ボクシングなんか続けて、卒業したら仕事はどうするんだ?」
 
 
 
 
と、学生なのにプロとして活動しているのをいさめるような事を言われました。
 
 
 
 
いつの頃からか、僕は父にほめてもらう事を諦めてしまいました。
 
 
 
 
 
 
 
今となっては解ることですが、
 
 
どうやら父は、息子が活躍するのを喜んでいたようです。
 
 
 
 
ただ、当時はそれを表現する方法を知らなかった模様。
 
 
 
 
後になってから初孫である僕の娘を、何でもかんでも手放しでほめまくるじいちゃんになった時には、その姿を見て愕然としたものです。
 
 
 
 
でも、それで良かった本当に。 
 
 
 
 
幼い娘が何をしてもじいちゃんに無条件でほめられ、可愛がってもらう姿をみるにつけ、長年のわだかまりが、いとも簡単にホロホロとはがれ落ちて行くのを感じました。
 
 
 
 
 
 
 
訪問医師の先生は素晴らしい方でした。
 
 
 
 
この方が先生で本当に良かったと思いました。
 
 
 
 
常に朗らかで 在宅介護の家族の不安をほぐしてくれました。
 
 
 
 
好きなものを食べ、飲んでもらっていい。
 
 
お酒もいい。
 
 
 
 
そう言ってくれました。
 
 
 
 
意識もうろうの父に酒を飲ました翌日には、帰宅してからの状況を判断して点滴を開始してくれました。
 
 
 
 
「 もう少しだけ、ご家族と一緒に楽しむ時間があってもいいと思うんです。
 
これでほんの少し可能性を探させてください。」
 
 
 
 
ほどなくして父は意思の疎通が可能になり、一時はかろうじて自らの手でコップの酒を口にふくめる位にまで回復し、家族との最後の時間を過ごしました。
 
 
 
 
訪問医師の先生は、父の人生の最後に、家族にとってかけがえのない時間を与えてくれました。
 
 
 
 
本当に心の底から深く感謝しています。
 
 
 
 
 
 
 
訪問介護のヘルパーさんたちは1日に2回、午前と午後に来てくれました。
 
 
 
 
ヘルパーさんや看護師さん、訪問入浴の担当チームさん、マッサージの療法士さんが来てくれる時間には、僕は必ず同席するようにしました。
 
 
 
 
邪魔にならなければ可能な限り介護を手伝わせて頂いて、そのスキルを覚えようというのも確かにありました。 
 
 
 
 
しかし、純粋にヘルパーさんたちが魅力的で、お話を聞くのが楽しかったです。
 
 
 
 
こんな人たちがこの世にいるんだ、、、
 
 
 
 
と、感服しました。
 
 
 
 
腰が低くて丁寧で、優しくて。
 
 
 
 
それと当時に、この方たちが持つ何かが、僕の心をとらえていました。
 
 
 
 
僕は販売員として恐らく累計で何万人というお客様に接してきているはずです。
 
 
 
 
それでも、普通の人からは感じる事のない、何か。
 
 
 
 
吸い寄せられるように毎日毎日、父の介護に立ち合っては、その不思議な魅力に包まれていました。 
 
 
 
 
 
 
 
嗅覚とは 
 
人間の機能の中でも、つよく記憶に結びついている感覚。 
 
 
 
 
 
 
 
それは父がこの世で過ごした最後の土曜日。
 
 
 
 
ある匂いを父の息から感じ取りました。
 
 
 
 
人生でかつて一度だけ嗅いだことがある独特の匂い。
 
 
 
 
遠く忘れ去られ、思い出す事も無かった記憶が一撃でよみがえり、目の前の景色から現実感を奪っていきました。
 
 
 
 
 
 
 
あれは二十歳の頃。
 
 
 
 
病院に入院して、もはや話すこともできない状態の祖母と面会した時に嗅いだにおい。
 
 
 
 
「 これは人間が死ぬ時の匂いだな 」 
 
 
 
 
それまで一度も経験したことがない匂いであったにも関わらず、本能的にそう感じました。
 
 
 
 
祖母と会ったのはその時が最後になりました。
 
 
 
 
あの時と同じ匂いが目の前の父から感じられる。
 
 
 
 
頭の中がひどく冷静に、父との最後の時間が、ひとつ一つ削られていくのを確認していました。
 
 
 
 
完璧に理解していることにもかかわらず、また一つ別れの時が近づいているのを感じていました。
 
 
 
 
 
 
 
僕はかなり正確に、父がこの世から去るであろう日を事前に予測できました。
 
 
 
 
最後の土曜日を迎えるその前からすでに。
 
 
 
 
可能であれば、父の介護が終わってお帰りになるヘルパーさんの後を一人で追い、家の外で挨拶をしました。
 
 
 
 
「 次に来て頂く時がおそらく最後になると思います。」
 
 
 
 
「 父に来週は無いと個人的には考えてますので、今日が最後になると思います。
 
父をお風呂に入れて下さって、本当にありがとうございました。」
 
 
 
 
母がいる手前、家の中では、とてもそのような事を伝えられそうにありませんでした。
 
 
 
 
最後の土曜日に来て頂いたヘルパーさんが、 後になって伝えてくださった事ですが「次は会えないかもしれない」とその時に感じられていたそうです。
 
 
 
 
「悲しいもので、この仕事をしているとお別れの日が近づくと分かるのが自分でもすごく嫌になります。」
 
 
 
 
と。
 
 
 
 
そのような気持ちは、1ミリも家族に感じさせず、 自分の感情は微塵も表に出さず、 常に明るさを届けに来てくれたヘルパーさん。
 
 
 
 
僕の中では確信に近い感覚なのですが、
 
 
 
 
今回の介護や看護に携わってくれたほぼ全ての方たちが、おそらく同じことを理解していたはずだ
 
 
 
 
と、そう感じています。 
 
 
 
 
 
 
 
こんな事が含まれているなんて、自分には思いもよりませんでした。
 
 
 
 
父がこの世から去っていくその瞬間が来る前に
 
 
 
 
同じことを理解したこの方たちと
 
つかの間に知り合って、もう二度と会うことはないであろうこの人たちと
 
 
 
 
別れるべき時が来るなんて。
 
 
 
 
 
 
 
父の介護を担当してくれたヘルパーさんの中に、たまたまその期間中に離職される方がいました。
 
 
 
 
最も多く父の介護をしてくれたその方に、せめてお礼だけでも伝えたいと願いメールを差し上げた所、とても丁寧なお返事を頂きました。
 
 
 
 
その中の言葉を見た瞬間。
 
 
 
 
 
 
 
「最後までお力添えを続けることが出来ないことが心残りなのですが、青山様が快適に過ごされ、安らかな最後を迎えられることを祈っております。」
 
 
 
 
 
 
 
胸の奥の何かが、強烈に握りしめられました。
 
 
 
 
 
 
 
この人の 
 
この方たちの たたずまいと美しさは一体何なのだろう
 
 
 
 
ずっと考えていました。
 
 
 
 
 
 
 
サイコパスとは 
 
良心や善意を持たず、他者の感情や痛みに対する共感性が低く、相手を思いやる感覚が欠如している人間の事。
 
 
 
 
そのサイコパスが存在する割合の調査があって、最も少ない職業は一位が「介護助手」で二位が「看護師」だったはず。
 
 
 
 
逆説的に言い変えると、
 
 
介護や看護にたずさわるこの人たちは、世の中でもっとも他人の痛みに共感し、相手を思いやる事の出来る人たちなのだろう
 
 
そう思いました。
 
 
 
 
にもかかわらず、
 
この人たちから受ける印象は
 
 
 
 
優しさとか、強さとか、思いやりとか。
 
 
 
 
そんな使い回された言葉では言い表せない気がする。
 
 
 
 
 
 
 
そうか。。
 
 
 
 
この人は 
 
この方たちは人間の「死」の存在を受け入れて、人と関わっているんだ。。
 
 
 
 
 
 
 
なくしてゆく記憶の 
 
 
かすれていく視界の 
 
 
潰れていく呼吸の  
 
 
忘れていく名前の 
 
 
弱ってゆく脈動の  
 
 
壊れていく感情の 
 
 
奪われていくぬくもりの 
 
 
こぼれてゆく想い出の 
 
 
 
 
 
 
 
消えていく最後の命と共に 
 
 
 
 
 
 
 
明日の光を失うその時に向かって、かたわらで手助けだけをしている
 
 
 
 
 
 
 
人生は前に向かって扉を開いていけるものだと思っていました。
 
 
 
 
たとえどんなに辛く苦しい時であっても、その先に光があるかもしれないという希望があれば、暗くて重い扉も開いて前に進んで行ける。 
 
 
 
 
 
 
 
でも 
 
この世に生をなくすその時に向かいながら、一つ一つ扉を閉めていく存在に共感して寄り添うなんていうのは。
 
 
 
 
 
 
 
人の痛みを受け入れることができる方たちにとっては、とても苦しくて大変な事なんじゃないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
この人を 
 
この方たちの在り方を見ていると
 
 
 
 
失われる存在を痛む心のヒビの中に、じんわりと何かがにじみ出て癒される気がするのです。
 
 
 
 
 
 
 
ありがとう。 
 
 
 
僕はあなたの存在に心の底から救われました。
 
 
 
 
このご恩は決してけっして、忘れません。
 
 
 
 
 
 
 
人間というのは動物として何万年も進化してきた存在で、その肉体は生存のために最適化されているといいます。
 
 
 
 
生命を脅かす危機に陥った時、人間の身体は優先順位の低いものから切り捨て、生存のために必要なものを残すようにできています。
 
 
 
 
父の自宅介護を行っていて驚愕したのは、足の太さや形が、おとといと比べて明らかに違っていることを確認した時です。
 
 
 
 
父の身体を1日に最低2回、場合によって4回も5回も見ているにも関わらず 、明らかに数十時間前より足が細くなっている。
 
 
 
 
頭蓋骨が浮き出て形を確認できるようになって、なお。
 
 
 
 
人間はここからまだ痩せられるんだ。。
 
 
 
 
そう思いました。
 
 
 
 
 
 
 
僕は父が泣いたのを今まで一度も見た事がありませんでした。
 
 
 
 
いや、
 
 
正確に言えばたった一度だけ、その現象を目撃したことがあります。
 
 
 
 
 
 
 
小学生の頃、父と妹の3人で夕飯にコタツでおでんを食べていた時の事です。
 
 
 
 
まだ辛いのを食べ慣れない妹は、箸の先でカラシをちょこんとつついて、申し訳程度におでんになすっていました。
 
 
 
 
それを見た父が 
 
 
「 ばか!こんなのたっぷり付けなきゃ美味くないんだ。
 
食べたって大丈夫だ!」 
 
 
 
 
と言って、練り辛子を箸でふいっとすくって、ぱくっと口に入れたのです。 
 
 
 
 
「そんなものかなぁ。。」
 
 
 
 
と思いながら妹とおでんを食べていました。
 
 
 
 
ふと、 
 
 
父が黙っているので顔を見てみると、口をつぐんで大粒の涙をポロポロ流していました。
 
 
 
 
「!?」 
 
「 やっぱり、辛いんじゃん!!」 
 
 
 
 
兄妹2人で腹を抱えてゲラゲラ笑い転げたのを今でも覚えています。 
 
 
 
 
父も涙を流しながら、一緒になって大笑いしていました。 
 
 
 
 
父が泣いたのを見たのは後にも先にもあれっきりです。
 
 
 
 
 
 
 
その父が目の前で毎日、目に涙を浮かべて泣いている。 
 
 
 
 
寝たきりの状態になり、一人でタンを吐く事がうまくできなくなった父はその排出を吸引器に頼っていました。
 
 
 
 
看護師さんが週に数回来てくれる時は、鼻から管を入れ、喉の奥まですっきりとタンを取り除いてくれるのですが、普段はそうもいきません。
 
 
 
 
横向きに寝させた父の身体を、母が背中側から支えてマッサージをしつつ、吸引器でタンを取り出す行為は僕が担当しました。 
 
 
 
 
看護師さんのようなスキルがない僕は、鼻から管を入れる事ができません。 
 
 
 
 
苦しみながら喘ぐ父の口から吸入器の管を入れ、喉の奥まで押し込んでタンを吸い取っていました。 
 
 
 
 
看護師さんいわく、口から管を入れられるのは苦しいそうです。 
 
 
 
 
毎日何回も、無理やり口から胃カメラを飲まされるようなものだと思います。 
 
 
 
 
僕は父が涙を流して苦しみながら必死で腕をつかんできても、情け容赦なく喉から管を飲み込ませ、可能な限り思いっきりタンを吸い取ることにしていました。 
 
 
 
 
ただ、
 
その日は、どうにも喉の奥まで管を飲み込ませられず、上手くタンを吸い取ってあげる事ができずにいました。 
 
 
 
 
苦しむ父の口の隙間から、ペンライトで中を照らしてみると、うまく管を回せずに傷つけてしまった喉の奥から血が滲んでいます。 
 
 
 
 
申し訳ないな、と思いつつも、苦労しながら可能な限りのタンを取っていました。
 
 
 
 
 
 
 
「 もういいよ。。。」
 
 
 
 
 
 
 
ここの所、まともに言葉を話す事すらできなかった父が、顔の目の前にいた僕に言いました。 
 
 
 
 
それが父から聞いた最後の言葉となりました。
 
 
 
 
 
 
 
生命を維持しているのが不思議なぐらい痩せ細っていく父を見て感じたのは、
 
 
 
 
「 涙って大事なんだな。。 」
 
 
 
 
ということでした。
 
 
 
 
瞳の色がにごり、頭蓋骨の形がわかるほど痩せていくにもかかわらず、涙が目からこぼれ落ちる。 
 
 
 
 
人間は生命を維持していくうえで、最後まで涙の存在を残すんだ、そんなに涙って大事なんだ、と思いました。
 
 
 
 
 
 
 
そんなことをつらつらと考えていると、何の前触れもなく。
 
 
 
 
 
 
 
それが意識の中に、すっと差し込んできました。
 
 
 
 
 
 
 
「 人は涙の数だけやさしくなれる 」
 
 
 
 
 
 
 
そうか、、 
 
 
デビュー戦のあの日の言葉を未来に運んだのは父だったのか。。
 
 
 
 
 
 
 
この世界は美しく、まばゆく、やさしいところでした。
 
 
 
 
 
 
 
青山 清 
 
 
2021年5月19日 逝去 
 
 
享年77歳 
 
 
 
 
 
 
 
僕の人生に最も影響を与えた人がこの世界を去りました。
 
 
 
 
息子の目の前で美しく人生を閉じて。 
 
 
 
 
 
 
 
合掌。 
 
 
 
 
 
 
 
参考ブログ記事 
「人は涙の数だけやさしくなれる」 
https://kawagutufurugichuuko.com/good-bye
 
 
 
 
 
 
 

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