「 あいつはよくここで
ションベンもらしてたなぁ 」
扉の前のうす暗い通路で
僕は話を聞いていた
この扉の先は後楽園ホールの会場
プロのボクサーが
リングに上がる前に
最後に通る扉である
僕はかつて
プロのボクサーだった
片道3時間弱かかる
大学に通いながら
19歳でボクシングを始めた
19歳のスタートは
スポーツ選手としては遅い
格闘技の経験など
何一つない僕は
毎日、一生懸命練習した
クリスマスも
誕生日も
バレンタインも
いつもスパーリングをしていた
10代最後の日も
20代最初の日も
スパーリングをしていた
20歳の誕生日には
強烈なボディーブローを
何発もくらい
20代は前途多難だなぁ。。。
と、思ったのを覚えている
ひどく殴られて
顔を腫らしたまま
帰りの電車に乗ると
代々木上原駅から乗った
千代田線が地下鉄線内に潜る
目の前の
暗い窓ガラスに映るのは
はれぼったく歪んだ自分の顔
なんで自分はこんなに弱いんだろうと
情けなくて目に涙がにじんだ
そんな僕も
必死になって練習しているうちに
プロのボクサーになり
リングに上がって戦い
そして引退した
振り返れば
20年近くも昔の話である
今、辛くて辛くて
何かに必死に耐えながら
一生懸命に頑張っている人
もぅ、折れてしまいたいと
心細く思っていることだろう
でも、泣きながら鼻水たらして
なんとかしがみついている
あなたのその時期は
必ずあなたの生きる力になる
苦しくても踏みとどまる
その想いが
将来あなたを支える力になるんだと
僕は信じている
かつてボクサーだった時を思うと
記憶に残っているのは
楽しかったことや
いい思い出ではない
僕はデビューしてから
後楽園ホールで3試合連続
1ラウンドKO勝ちをしたから
それなりに
周りの人や友達から
認めてもらえていたと思う
試合の後は
応援に駆け付けてくれた友達が
飲み屋で祝勝会をしてくれた
本当に、すごくすごく
嬉しかったはずだが
そんなことは何一つ覚えてない
なんにもおぼえていない
思い出すのは
ボディブローでマットに
沈められたとか
殴られて鼻の頭の骨が
コキコキ動くようになったとか
世界戦も戦った
百戦錬磨のベテランに
いいようにあしらわれたとか
目の下が風船のように
ぷぅっと、腫れてふくらむ瞬間とか
20歳の誕生日に
強烈なボディブローをくらったとか
千代田線の地下鉄で
涙を浮かべながら
ベソをかいて帰った自分だ
生きていれば
大変なことや苦しいことは
必ずある
でもそんな時
苦しくても逃げずにやるべきだと
自分を奮い立たせてくれるのは
あの時、頑張った
あの時、ベソかいて
地下鉄に乗っていた自分が
人生に
プロボクサーだったという
経歴をくれた
自分の人生に
生きる力をくれたという
そこだけなんだ
僕の人生の背骨は
地下鉄の窓ガラスに映る
腫れあがった顔にある
かつて
協栄ジムの世界戦では
欠かすことのできない
名カットマン(選手の止血をするセコンド)が
話してくれた
K・Tさんという元プロボクサーの
世界チャンピオンだった人がいる
以前はタレント活動で露出も
多かったので
ご存知の方も多いはずだ
テレビで見せる
コミカルなキャラクターとは裏腹に
現役時代はとにかく
ハートが強いボクサーで
壮絶な打ち合いの試合をする
世界チャンピオンだった
その強心臓でならした
世界チャンピオンが
後楽園ホールの薄暗い通路の中で
試合用のトランクスを履いたまま
リングに上がる前
ションベンを漏らしていたという
僕は今でも人生に
ビビることがある
そんな想いは
いくつになっても
いつまでたっても変わらない
怖くて足がすくんで
立ち尽くしてしまうのは
いくつになっても
変わらない
でも、僕は知ってるんだ
世界で一番強い男も
怖いもの知らずで
何をも恐れず戦えるから
強いんじゃない
恐怖に震えて
トランクス履いたまま
ションベン漏らすほど
ビビッていても
勇気を振り絞って
戦おうとする男が
本当に
強いんだっていうことを
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